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麻生加番所跡 | ||||
(麻生の集落) | ||||
秩父往還道は宮平で国道140号線から反れて山道となり麻生の集落でまた国道と合流します、合流直ぐ先に麻生加番所跡があります、麻生番所はこの先の栃本集落に設けられた栃本関所の追加番所です、江戸期のはじめの寛永年間にこの地を訪れた幕府の役人が栃本関所の周辺には信州などからの抜け道が幾つかある事から栃本関所だけでは通行の監視が不十分ととらえて此処麻生の集落に追加番所を新設する事命じたと云います、麻生番所の勤務は6組の百姓24人の輪番制として北条氏の旧臣千島氏が番所の長官を勤めました。 | ||||
(秩父往還道と国道140号線の合流地点) | (麻生加番所跡) | |||
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上中尾の集落 | ||||
麻生集落を出て15分程国道を進むと上中尾の集落に入ります、上中尾はその昔、小荷物を運ぶ馬引き業者の宿所であったそうです。 | ||||
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琴平神社、吉備神社 | ||||
(琴平神社やしろ) | ||||
上中尾の西口付近に小さな鳥居が建っています、琴平神社と吉備神社の鳥居です、琴平神社は一つの大きな岩の上に鎮座するなんともそれらしい雰囲気のある社です、その下手には吉備神社の祠が祀られています、境内の杉の巨木は高さ高さ35mあり樹齢500年だそうです。 | ||||
(杉の巨木) | (吉備神社祠) | |||
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上中尾小学校跡 | ||||
(上中尾小学校木造校舎) | ||||
上中尾の集落の東側「上中尾公民館」は廃校となった上中尾小学校の跡です、現在も木造校舎がそのままの状態で残っています、この小学校は昭和のはじめに寄宿舎があり生徒はそこに寝泊りをして勉学していました、50人程の生徒が寝泊りしていたそうで離れた集落から通う生徒は学校が生活の場と成っていました、土曜の午後には自宅に帰り日曜の午後に学校へ戻ってきていたそうです。 | ||||
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栃本へ向かう秩父往還道 | ||||
上中尾から栃本へ向かう往還道筋は巨石、岩が所々に露出した如何にも旧道らしい雰囲気の林道です、途中、開けた場所があり信州の雄大な山々が遠望できます。 | ||||
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栃本の集落 | ||||
栃本の集落に到着しました、栃本の集落は白泰山の東尾根の斜面に開かれた50戸程の集落で雁坂峠を越えて信州へ向かう道筋と十文字峠を越え甲州へ向かう道筋の分岐点にあたり古来より交通の要所でありました、江戸期、明治期は旅館、旅籠などが並ぶ宿場で現在も登山客相手の民宿があると言います。 | ||||
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栃本関所 | ||||
戦国時代に奥秩父は甲斐武田氏の勢力圏となっていました、当時小田原北条氏が秩父方面に侵攻しはじめた事に伴い武田信玄は秩父方面の監視と情報収集を目的として交通の要所である栃本に関所を設けたのです、栃本関所は設立当初、通行人を取り締まると言うより秩父往還道を大宮郷方面から来る通行人を差し止めてその通行目的と秩父方面での情勢を聞きだし必要な情報を本拠地甲斐へと伝達する役割を持っていました、甲斐武田氏は甲斐国を取り囲む山々を最大の国境防衛線とする戦略を取っていました、栃本関所も秩父地方の情報収集面からその防衛戦略の一環として創設されたのです。 江戸期になると奥秩父は幕府の直轄領となり栃本関所は幕府管理により通行人取締りの関所となったのです、現在の関所建物は江戸期に建てられものです。 |
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栃本の秩父往還道 | ||||
(日本の道百選の碑) | ||||
関所前の秩父往還道(国道140号線)はとても見晴らしがいい街道筋です、現在「日本の道百選」の一つに数えられ栃本関所に隣接する栃本会館前にその碑が立てられています。 | ||||
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